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one more time, one more chance
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自分は松本修一にとって一体何なのだろう、と藤原拓海は思う。 もう何度目なのかはカウントしていないので判らないが、気が付けば何時も 胸の中で同じ問いを繰り返している。仕事中でも、誰かと居る時でも、峠に居る時でも。 最近、またその頻度が増えてきたような気がして、出来るだけ拓海と しては上の空で居ないよう気をつけているのだが、やっぱり無意識に 松本の事を考えている。 仕事も、峠も、参加しているプロジェクトも何もかもそれなりに充実しているし、余計な考えが入り込む余地は無い筈なのだが、それでも、意識は何時の間にか松本へ向かっているのだった。 夏の終わりの宵は、べったりと甘ったるい蜜のようだ。空気は湿っぽく 熱くて、何処か気だるい。もう暦の上では秋だと言われても、現実はまだ まだ夏の気配が強くて、秋の気配は欠片も感じられなかった。 「………ふぅ」 額の汗を手の甲で拭い、拓海は息を吐く。辺りは薄闇に包まれ始めて いると言うのに、靴裏を通してアスファルトの熱がじんわりと伝わっていた。 時折吹く風も酷く生ぬるく、弱々しい。 普段からボケ気味だと言われる拓海だが、夏場は更に顕著だった。 自分でも何を言っているのか、しているのか、果てには考えているのかさえ 判らなくなったりする事がある。付き合いの長い友人に良く、何を 考えているのか判らないとハッキリ言われたりするが、自分でも判らない のだから致し方がない。 特に今年は、カリスマストリートキングプロデュースのスペシャルチームに 参加……しかもツートップの片方として……しているのだ。ドライバーとして 活動している間はボーっとしている訳にもいかないので、無理矢理そこは 引き締めている。勿論、仕事中もあまりボーっと出来はしないので皺寄せは 日常生活に寄り捲っているのだった。 よって、例年になく緩み捲った男いっちょあがり、と言う状況が今の拓海なのである。 松本のアパートと駐車場の間は踏み切りを挟んで少し距離があった。 運転するより弄る方が楽しいと言う松本は普段、足を持たないペーパードライバーだ。遠征時はバンを運転する事になるが、それ以外の時は拓海がこうして迎えに行く事になっている。 ふう、ともう一度拓海は息を吐いた。今日は何時に無く足が重く感じるのは気温の所為だけではない。 来週末辺りに組んだバトルに向けて、ハチロクのセッティングを毎晩二人でやっている所だった。涼介から預かったビデオや資料を基に松本が調整をし、拓海が走らせては細かく手直しをする。 時間帯や活動範囲が違うのか、滅多に啓介たちとは会わなかった。会ったとしても、お互いに限られた時間を無駄にはしたくなかったので、そう話し込む事も少ない。ただ、松本とメガネ、史浩はテスト走行の間は何かしら話をしているようだったが。 松本のセッティングは完璧だと拓海は思う。自分の目の届かない部分まで細かく気が配られている。ハチロクのシートに座っていると、松本の気配を感じてしまう程に。ひとつひとつのパーツに触れる器用な指先や、真摯な視線を注いでいる横顔さえ見える気がする。 よくない。 そんな余計な事を考えていては走れない。判っていた。それでも、車内に居るとつい、松本の気配を追ってしまう。いや、追わなくてもこの空間は松本の気配に満ち過ぎていた。まるで溺れてしまいそうな位、ひたひたと。 本当によくない。 考えない考えない考えない。そう胸の内で呟くと拓海は振り切るようにアクセルを踏み込み、峠を下った。一通り感触を確かめながらスタート地点へ戻ると、 『どうだ?』 窓を開けると何時も、そう松本は言う。 窓越しに見える顔は笑顔の時も、真面目な時もあったが、拓海は松本の笑った時に出来る目尻の皺が気に入っていた。文太もそうだが、目尻から下へ引かれたラインはやけに男っぽく人を見せると思う。 だから、笑顔で出迎えられた時は一瞬、返事が遅れてしまうのだが普段から断線気味の所為か、あまり松本は気にしてはいないようだった。 傍に居ると、そわそわする。 落ち着かない。なのに気付けばその姿を目が追っている。 わからない。 もう一度、拓海は溜息を吐いた。もう一つ角を曲がれば踏み切りは直ぐ其処だ。踏切からはアパートが真っ直ぐ見渡せる。郵便受けの並んだ、その脇のドアが松本の部屋だ。 茶色い錆びの目立つ、スチールの郵便受けを知らず、拓海は目で追う。下段の一番左には、松本と書かれた、古びた厚紙がはまっている。こんなに離れていても、丁寧なその字が読めるような気がした。 『これ、間違えて届いてますよ』 『ん?』 一昨日の事だった。松本は仕事が休みで一日外出しなかったらしく、来るならついでに郵便受けを見ていてくれないか、と頼まれた。ズボラにも程があると思いながら鍵の掛かって居ない箱を開けると、入っていたのはやたらカラフルなダイレクトメールが一通きりだった。松本へ渡す前にプリンタで印刷された宛名を確認すると、拓海は首を傾げる。 自分の知らない、女の名前だったからだ。 『………ああ』 受け取った松本は、苦笑混じりにそう言うと、 『いいんだ』 呟きながらぐしゃりと封筒を握りつぶしてゴミ箱へ投げ込んだ。そうして、まるで拓海を追い立てるように部屋を出たのだった。 誰だったのだろう。 松本の過去を自分は殆ど知らない。そんな話をした事もなかった。 恋人、だろうか。 しかし、プロジェクトでしょっちゅう顔を合わせているのにそんな気配は全くしない。隠しているのなら相当の役者だろうが、こうして自宅へまで出入りしていてもやっぱり、判らない。 気になる。 少なくともあの郵便受けに入っていたと言う事は、あの部屋に住んでいた……今も住んでいるのかも知れないが……事実に違いないだろう。だったら、どうして松本はあんな風に捨ててしまったのだろうか。別れたのだろうか。松本は、そのひとの事をどう思っているのだろうか。 今。 かん、かん、かん、かん、かん、かん、かん、かん。 突然、響きはじめたけたたましい音に拓海は顔を上げた。警報機の赤いランプが点滅して、遮断機がゆっくりと下がってくる。規則正しいその響きに合わせるように、心臓が重苦しい脈を打った。喉の奥がぐっと、押さえつけられたように苦しくなる。 遮断機の直ぐ前で足を止めると、肺の底から深呼吸をした。何も、していない筈なのに息苦しくて眩暈がしそうだった。何度か息を繰り返して視線を前へ向けると、踏み切りの向こうに松本が立っていた。 「………ぁ」 それまではぼんやりとしか見えていなかった風景が、カメラのフォーカスのように松本を中心にして、急に輪郭がはっきりしていく。今まで、何を自分は見ていたのだろう。 どくん、と心臓が胸の内側で跳ねた。 向こう側はこちらよりも待っている人が多かったし、松本はその人垣の少し奥に立っていたのだが、そんな状況でも松本の姿は決しては紛れる事はなかった。手を振ろうか、と一瞬思い、直ぐ拓海は辞める。松本自身はどうやら、自分には気付いて居ないようだったからだ。何処か、あらぬ方向をぼんやりと見ている。 少しだけ失望したような気持ちになり、拓海は淡く苦笑した。松本は自分のように自分に関心は持っていないのだと気付かされたような気がする。何を期待していたのだろう、と自嘲しながらも松本から視線を外せないでいると、 「………?」 はっ、と松本は驚いたような顔をした。あまり感情を露にした所を見た事がない。こんな表情は初めてだった。 目を凝らし、拓海が松本の視線の先を追うと、どうやら踏み切りの端を見ているようだった。じっと見詰めている方向をトレースすれば、見るからに夜の商売へ向かおうとしている若い女性にぶつかる。派手なスーツと髪形をしていた。まさか、とは思ったが彼女の隣はチャリを押さえている男子中学生と老紳士だ。これはないだろう。 あんな目をしている癖に、松本は何故か彼女へ近寄ろうとはしない。彼女は松本の視線には全く気付いて居ないようで、苛々と携帯を弄っていた。 誰だろう。 ぐしゃり、と潰されたダイレクトメールが脳裏に蘇る。彼女なのだろうか。どうしてそんな顔をして見詰めているのだろう。彼女の事を今、どう思っているのだろう。頭が締め付けられるように痛くなった。警報が、耳の奥で反響してわんわんと唸りを立てている。 ………嫌だ。 足の爪先から、頭の天辺まで血が、ざわざわと音を立てて昇っていくような、気がした。どくどくと壊れたように心臓は脈打ち、ノイズが耳を塞いで何も聞こえなくなる。ただ、胸の内側で何度も同じ言葉を繰り返した。嫌だ、嫌だ、嫌だ。他の言葉は思いつかなかった。 握り締めた指先がやたら冷たい。まるで石にでもなったように、松本を見詰めたまま立ち尽くしていると、いきなり、視界が真っ白になった。 暴力的な程の轟音を立てながら通過していく車両の窓々は白々しい程明るく、内側にはぎっしりと乗客が詰まっていた。風に吹かれて薄いシャツの裾がばたばたとはためく。この、向こう側で松本はどうしているのだろうかと拓海はじっと目を凝らしていたが、苛々する程車両は長く、なかなか行き過ぎてくれなかった。何か、邪魔をされているような気さえして、拓海は息を詰める。 なのに、ひゅうっ、と風を切るような音を立てて車両が過ぎた瞬間、あれだけ凝視していた松本を見失っていた。目隠しを急に外されたように、心許ないような気持になる。遮断機が上がり、周りに押されても何故か足が動かない。そのまま立ち尽くして急ぎ足の群集に松本の顔を探していると、 「藤原」 「………あ」 直ぐ、目の前から声がして拓海は目を見開いた。何時の間に、いや、何時から気付いていたのだろう。自分が、此処にいる事を。 「どうした?」 「………ゃ、いえ」 はっと気が付いて拓海は松本の周りを見回したが、さっきの女性は見当たらなかった。先へ行ってしまったのだろうか。行方を追おうとしたが、 「具合でも悪いのか?」 怪訝な顔をした松本に言われ、拓海は慌てて首を振る。心配を掛けるつもりなどなかった。松本を自分が気にしているのは確かだったが、松本は何も悪くないのだ。それは、 「顔色も良くないようだし、今日は止めておくか? とりあえずエンジンルームだけ確認するけど、テストはまた今度にしようか」 顔を覗きこんできた松本の表情を見て更に拓海はまずい、と思った。そんな意図は全く無かったのに、誤解されては自分で自分が許せない。さっきよりもずっと激しく首を横へ振ると、 「いや、ホント平気ですから」 松本のシャツの裾を引いて、拓海は駐車場の方へ来た道を戻ろうとした。しかし、松本は逆にその手を掴み、反対側へと強く引っ張られる。 「そんな顔をして平気も何もないだろうが」 「ほ、ホントに平気だって……」 「無理するな」 ぐいぐいと引き摺られて行く先は、紛れも無く松本のアパートの方面だった。こんな状況で二人きりにはなりたくない。出来ればどうにかして回避したかったのだが、上手い逃げ口上が思い付かず、途方に暮れるような気持ちで拓海は踏み切りを渡ったのだった。 松本が部屋を出て来たのはついさっきだろうに、西日の所為か冷房はもう、名残り程度にしか残っていなかった。むっとする熱気に松本はエアコンのスイッチを入れると、冷蔵庫から冷たいペットボトルの茶を出して、拓海の頬へあててくる。 「暑さに負けたんじゃないのか?」 「……別に、大丈夫だって言ってるじゃないですか」 松本の手からペットボトルを受け取り、拓海は一歩後ろへ下がった。部屋の真ん中に立ったままのこの距離が近すぎて落ち着かない。薄いカーテンでは塞ぎきれない西日の眩しさに目がちかちかした。 「この頃、何だか上の空じゃないか? そう言うのが一番危険なんだ」 拓海の開けた距離はそのまま、松本は冷静な声でそう言った。ああ、見透かされているのだ、と拓海は心のうちで溜息を吐く。確かに上の空だった、何もかも。松本の事ばかり考えていた。 「……すいません」 神妙な顔をして拓海が頭を下げると、松本は小さく息を吐き、僅かな笑みを浮かべながら拓海の肩をぽん、とひとつ叩いてくる。そんなに強く触れられたわけではないのに、手からペットボトルが落ちそうになり、拓海は慌ててボトルを握り締めた。 「みんな、お前に期待してるんだから」 「……………」 優しい、声だった。子供を宥めるような柔らかい響きである筈なのに、何故か拓海には突き放されてしまうような、不安な気持になる。今にも足元が崩れてしまうようで心許なかった。 そんな言葉が聞きたいんじゃない。 ペットボトルを両手で握り締めると、拓海は顔を上げて松本の顔をしっかりと見上げた。どうしても今、言わなくてはならないような気がして心はそわそわするのに、言葉が喉に引っ掛かって出て来ない。ごくん、と息を呑むと、松本は僅かに首を傾げた。心配なんかされたくなくて拓海は、遮るように口を開くと、 「松本さんはどうなんですか」 胸の鼓動が、ど、ど、ど、ど、と早く、壊れそうに強く打っている。松本は幾度か目をしばたたかせると、また、首を傾げてしまった。どうやって、この気持ちを伝えれば良いのか考える余裕もなくて、拓海は歯噛みする。 「松本さんにとって、オレって一体何なんですか」 「……藤原、が?」 驚きに見開かれた瞳に、拓海は苛々するような気持ちでペットボトルを握り締めた。気持ちの伝わらなさがもどかしくて、いっそ泣き出してしまえば楽になるのかと思う。どうしたらいいのだろう。 「オレは、松本さんの事がずっと気になって仕方なかった……もう、ずっと松本さんの事ばっかり考えて、どうしたらいいんだか……」 伏せた視線の先に、ゴミ箱が見えた。まだ、あのダイレクトメールは中に入っているのだろうか。自分は今、居るのに。松本の前に居るのは自分なのに、あんなものにも敵わないような気がして、頭をぎゅっと締め付けられるような気がした。 「……藤原」 松本の手が、頭へ伸びてきて、くしゃりと髪を掴む。拓海が顔を上げると、何処か痛そうな笑みを浮かべて、 「気の所為か、と思ってたんだけどな」 「……………」 穏やかな声に鼓動がひとつ、重苦しく跳ねた。エアコンの所為ではなく、爪先からすうっと身体が冷たくなっていく。声も出せずに拓海が言葉を待っていると、松本は小さく溜息を吐いて、くしゃくしゃと髪を乱してきた。 「オレも気になってたよ、藤原の事は。多分、同じような意味で」 「………おなじ」 松本に触れられている場所が、ぞくぞくする。声まで震えそうになりながら拓海が返すと、松本はそっと手を引っ込めた。 「オレはどうしたらいいんですか」 離れた瞬間、急に心細くなって拓海は松本の手を目で追う。松本を困らせているのは判っていた。松本に答えを求めるのは間違っている事も嫌と言うくらい判っていた。でも、どうしようもなかった。口が勝手に動いてしまう。 「どうしたらって……」 予想通り、困惑しきったような顔と声で松本は言い掛けたが、何度か瞬きをした後、ゆっくりと、平かな声で言った。 「藤原はオレと、どうなりたいんだ?」 「……………」 どう、って。 拓海は下ろされたままの松本の手から視線が外せなかった。感覚がまだ残っている髪がやけにそわそわする。さっきみたいに、触れられたい。でも、きっとそれだけでは足りない。 もっと近付けたら、いい。偶然のようにするのではなく、きちんと意思を持って触れたり、触れられたらどんなにいいだろう。たった数十センチ先の距離、なのに、透明な壁があるようで手が伸ばせない。 「……松本さんは、どうなんですか」 問いに問いで返すのは卑怯だと思ったし、どうしようもないくらいまだ子供なのだ、と言う気もして哀しかった。視線を上げると、松本は苦笑じみた息を吐いて、言う。 「オレは、巻き込まれたいと思ってる」 「……………」 言葉の意味が読み取れずに、拓海は何度も瞬きをした。じっと見詰める視線を逸らすように松本は目を伏せると、 「ずるいと思うだろう?」 自嘲するように言う。やっぱり意味が判らずに拓海が立ち尽くしていると、松本は溜息を吐きながら顔を上げた。 「藤原が、オレを変えてくれるんじゃないかと思ったんだ」 「……オレが?」 どうやって。そう思いながら拓海は返したのに、松本はひっそりと微笑んだだけで、他に何も言おうとはしなかった。 「オレに何が出来るって言うんです」 途方に暮れるような気持ちでそう言っても、松本は答えない。今までの言葉の中に、答えは無かったかと拓海は頭の中を探っていたが、どうしても判らなかった。自分がまだ全然子供だから、大人の考え方が出来ないのだろうか、と己の無力さがもどかしくてたまらなかった。 万策尽きるまでそうしてから、溜息を吐くと拓海は松本の顔を覗き込む。 「オレには何も出来ませんし、出来るとも思わねえですけど」 『そんな事はない』なんて、見え透いた言葉に打ち消される前に拓海は再度口を開くと、 「オレは、松本さんが好きですから」 言ってしまうのは、思ったよりも簡単だった。ほんの一瞬の事で、自分でもあっけないと思う程だった。 なのにこの情緒の無さはどうだろう。 これは果たして告白と受け取ってもらえるのだろうか、とたちまち拓海は不安になり、そのまま落ち着かない視線で松本の顔を見詰めていた。松本は、一瞬、僅かに目を見開いたようだったが直ぐ、普段どおりの表情へ戻ってしまっている。言うんじゃなかった、と其処で初めて拓海は後悔した。言わなくても、良かったのに。言わなければ元通り、上手く付き合っていく事が出来た筈なのに。 どうして自分はこんなに子供なのだろう。 何時もそうだ。後から悔やむ事になるのを、気付かないで過ちを繰り返す。上手く遣りぬける方法を知らない。 いっそ謝ってしまおうか、と拓海が口を開きかけたとき、ふいに、 「拓海」 松本がそう、言った。何時の間にか頬へ、ごつごつした手が触れている事も気付かなかった。今まで、名前で呼ばれた事は無かったような気がする。まるで今まで呼ばれなかった別の名前で呼ばれたような、ずっと探していた言葉を聞いたような、気がする。まるで心臓を上から殴られたように、どくん、と大きく鼓動が跳ねた。 僅かに傾けられて近付いてくる松本の顔から目が離せない。 すうっと、全ての音が遠ざかって何も聞こえなくなった。近付き過ぎた顔に慌てて拓海が目を閉じると、柔らかな感触に口唇を塞がれる。息も出来ずに固まっていると、強く押し当てられた。 ペットボトルが、手からすり抜けて落ちる。それは鈍い音を立てて転がっていったが、目を開けて追う事も出来なかった。 信じられない。 するり、と入り込んできた舌先も、気付かないまま強く抱き締められていた背中も、重なっている体温も何もかも、信じられなかった。 「…………ん、っ」 強く舌を吸い上げられ、思わず上がってしまった声の高さと甘さに驚いて、びくっと拓海が跳ねれば、抱き締めている腕の力が強くなる。口唇を、ざらりと舐め上げられてまた、小さく息が漏れた。 「…………っ……」 おずおず、と拓海からも舌先を絡め合わせると松本の指先が襟足を梳くように掴んで、もっと、深く合わせてくる。 別人、みたいだった。こんなに、激しいキスをするとは知らなかった。押し当てられた柔らかな口唇も、別の生き物のように口内を探る舌も、湿った熱い吐息も、強く抱き締めているその身体も普段とは完全に別人だった。 信じられないような気もするし、信じてもいいのか迷う。混乱した意識は、眩暈混じりの快感に霞んで、何も考えられなくなっていく。 「………拓海」 だから、ゆっくりと、惜しむように口唇を離しながら松本に呼ばれた時は、何となくこれきりにされてしまうような気がして胸が潰れるような気持ちになった。誤魔化すように、濡れた口元を拳でごしごしと擦りながら、不安げに拓海は松本を見上げる。 「覚悟は、出来ているんだろうな?」 松本も同じように口元を拭いながら、まだ、少し迷うように視線を僅かに逸らせ、静かな声で言った。覚悟? 意味が判らないまま拓海は小さく首を傾げてみせる。 「一度踏み出したら、もう引き返せねえぜ? それでもいいのか?」 黙ったままそうしていると、視線を合わせないまま松本はそう言った。低く押し殺したような口調は相手へではなく、むしろ自分に確認をしているように拓海には聞こえた。 それは決して自分の気持ちそのものへの問い掛けではなく、相手に対する残酷な、表面ばかり優しく取り繕った、いかにも大人らしい善良さで、衝動に駆け出そうとしている自分を押さえ込もうとしているように見える。 ずるい、と言った松本の言葉が今、拓海には良く解った。確かにずるい。そんな事を言われても今更、 「……引き返せる訳、無いじゃないですか」 自分の気持ちを伝えてしまった瞬間、とっくに自分はデッドラインを越えてしまっているのに、それを無かった事にされては堪らなかった。いっそはっきり断ってくれた方がどれだけいいだろう。 そんな思いから出た言葉は、思いの外強い口調になってしまい、拓海自身も驚いた。まるで責めているようだ、と次の瞬間思ったが、松本が苦しげに顔を顰めてしまうと、重苦しい後悔が喉元をぎゅっと締め付けた。 ただ、自分は駄々を捏ねているだけなのかも知れない。このままどんなに続けても、ただ松本を困らせるだけになるのかも知れない。拓海は歯がみしたが、今更、引き際が判らないし、もうそれは失ってしまっているような気がした。 どうしたらいいのか判らないまま、拓海は松本の顔から視線を逸らす。 松本の言う通り、大人のずるさに流されてしまえば楽になれるだろうか、そんな考えが初めて頭をちらりと掠めた。そのタイミングを自分から外しておいて、出来るだろうかと彷徨わせた視線の先が、ふと、止まる。 雑多に突っ込まれたゴミ箱の中から、見覚えの有る派手な紙端が覗いていた。ほんの少しだったけれど、それはあの日捨てられた封筒に間違いはなかった。 「………あれ、誰だったんですか」 胸の内側が、すうっと冷たくなる。こめかみがギリギリと締め付けられるように痛んで、全ての思考が止まった。自分ではない誰かが勝手に喋っているような気が拓海はしていた。 「誰って?」 拓海の指差した先へ松本は振り返ったが、ゴミ箱とは気付かなかったようで左右を見回した後、首を傾げながら向き直る。こんな気持ちとその原因を説明するのは、何だか負けを認める事になるようで苛々した。しかし、松本は自分が動きはじめるのを待っているのか、何時までも黙っている。 どのくらいそうしていただろう。喧嘩のように睨み合っていた視線を、結局先に外したのは拓海だった。 「あの、この間の、手紙の、」 胸の内側を、削り取られたようだった。 ざわざわと湧き上がるような、あんな感情が自分の中にあるとは知らなかった。頭の中が真っ白になる、激しい、何か。思い出す度に同じ痛みが胸へ蘇る。 なのに松本は幾度か首を左右に傾げた後で、一つ大きく頷くと、 「……………あ? ……ああ、あれか?」 今度ははっきりとゴミ箱へ振り返った。そうして、もう一度大きく頷いて、何だか楽しげに拓海の顔を覗きこんでくる。 「何だ? 気にしてたのか、まさか」 「………そ、そりゃあ」 「あんなもんが? 変な奴だな」 変な奴、と言われては拓海も口を噤んでしまうしかなかった。確かに、あんなものを意識してしまうのは自分でも奇妙だとは思う。でも、やっぱり嫌、なのだ。あんなものでも。 知らず睨みつけていたのかもしれない。ふいにくしゃり、と髪を掴まれて顔を上げると、少し痛そうな笑みを浮かべた松本と視線が合った。 「あれは、ただの、前に此処に住んでいた人だ。住所変更してねえのか、未だに来るんでもう返すのも面倒臭くなって………」 「………じゃ、昨日の人は」 笑いながら言われると、何だか言い訳くさいような気がする。くしゃくしゃを髪を弄っている指先も、からかわれているみたいで、拓海は視線をふい、と背けながら言った。 「昨日?」 どこまでもとぼけるつもりなのだろうか。変な抑揚のついた言葉も真剣みは全く感じられない。かっと火がついたように頭の中が白くなった。もう、何もかもどうでもいいような気持になる。 「踏み切りで何か、誰かじっと見てたじゃないですか」 「…………え、あんなの見てたのか? 確かに昨日、背中にクリーニング屋のタグが付きっ放しの奴がいて見てたけど、それだけだぜ?」 「……………」 「何、気にしてんだよ」 まさか、そんな事だとは。がっくりと拓海は項垂れた。何だか、さっきから墓穴ばかり掘っている。こんなの、女でも言わないんじゃないだろうか。墓穴ついでに、と拓海は溜息を吐きながら、言った。もう滅茶苦茶だ。 「そうですよ、もう気になってしょうがないんですよ、全部。ずっと、きっともっと前から気にしてました」 「………そう、か」 くしゃくしゃと髪を弄っていた松本の指先が止まり、手のひらが頬を覆うように下りてきた。かさついた指先の感触に拓海が顔を上げると、やっぱり松本は笑っていたのだが、さっきとは何処かその笑みが違う気がした。 「彼女だと思ったのか?」 「……………」 頬を包んでいた手の、親指が顎へ掛かって顔を上向けさせられる。少しずつ、松本の顔が近付いてくるのを拓海はまばたきもせずに見詰めていた。何だか、周りの音が良く聞こえない。 「これだけしょっちゅう顔合わせといて、居ないの判ってるだろう?」 「………で、でも」 鼻先をつき合わせながら言う松本の瞳はしんと静まり返っていて、嘘を吐いているようには見えなかった。でも、やっぱり誤魔化しているような、そんな疑いを晴らす程では、ない。 僅かに松本は顔を傾けて、拓海の心臓はどくん、と大きく跳ねた。鼻先を少しずらすようなそれが、何を意味するか知らない筈がない。近すぎる視線に目を閉じてしまいたいのに、何故か瞼は下がらなかった。 息も出来ない。 すると、 「……たく、み」 穏やかに、ゆっくり、松本が呼んだ。少し息の混じった掠れた声は、波紋のように長い余韻を拓海の耳へ残す。神経が、ざわざわと痺れていくようだった。 「ずっと、そう呼びたかった」 「………え」 肌に、松本の吐息が触れる。僅かでも動いたらぶつかってしまいそうな、微妙な距離を開けたまま、小さく松本は笑った。 「オレも、好きだ」 「………………っ」 笑み混じりの言葉に、拓海も何か返そうとしたのだが、出来なかった。油断していた口唇に、突然、深く、激しく口吻けられて、驚きに膝が崩れそうになる。絡めた舌の根が痺れるくらい引かれ、息の出来ないくらい強く抱き締められた。さっきのが、まだ全然手加減されていたのだ、と、松本の本気はその程度ではないのだ、とその時初めて拓海は気付いた。きっと、触れられるのは口唇だけでは済まないだろう。 「…………っ……ん、っ……」 どうなってしまうのか、そう思うと少し不安もあったが、それ以上に強かったのは好奇心だった。自分の知らない松本を、知りたい。この人の中にあるものを、少しでも覗く事が出来たら、いい。 「……は、ぁっ……」 濡れた口唇を舐め上げられて、拓海は松本の背中へ爪を立てた。この人を、わかる日なんて永遠に来ないかも知れない、でも、やっぱり。 「………好き…」 知らず、零れてしまった言葉を奪うように松本の口唇が重なってくる。柔らかく触れたキスに、オレもだ、と言われたような気がした。が、直ぐに熱に浮かされたように何も判らなくなっていく。 ……本当に、巻き込んでいるのは、どっちだろうか。 「………ん」 聞き慣れたメロディに拓海は目を覚ました。目を瞑ったまま、ばたばたと辺りを手探ったが携帯の手応えが無い。首を捻りながら目を開けると、薄明かりに照らされているのは、知らない部屋だった。 きょろきょろと辺りを見回しながら身体を起こすと、タオルケットが素肌から滑り落ち、奥がまだじんわりと鈍く痛む。どうしてだろう。現状の把握が出来ないまま、拓海は枕元へ転がっていたジーンズから携帯を取り出してアラームを止めた。そうして、ふと、横を向くと、 「………早いな」 眠たげに目を擦っている松本が居て、そして自分と同じように裸で……そこでようやく昨夜の記憶が拓海に蘇る。ああ、そう言えば。 「……は、配達、行かねえと……」 カーッと頭へ血が昇ってしまい、松本と目が合わせられなかった。ばたばたと転がっている服を引き寄せていると、 「………そうだったな」 眠気混じりの、少し延びた声で言いながら松本も身体を起こした。いや、まだ早いからと拓海は片手を慌てて左右に振る。まだ、一般人は完全に寝ている時間だ。 「ね、寝ていていいですから」 「……鍵」 ぼそりと言われ、拓海は決まり悪そうにシャツを被る。確かに、この部屋にオートロックなんて豪奢なものは付いていなかった。だったら早くしなくては、と泡を食いながら服を着ていく。最後に携帯をポケットへ捻じ込んでいると、ジーンズだけを身に付けた松本の手のひらが、頬へ延びてきた。 「拓海」 呪文のように、その言葉だけで自分は動けなくなってしまう。石のようにそうしていると、松本は微笑みながら触れるだけのキスをしてきた。 「また、夕方な」 「………はい」 白っぽく明けていく空を見上げながら、踏切へ歩いていく。幾度か振り返ったが、鍵を掛け直した後、また寝てしまったのか松本の部屋はしんと静まり返ったままだった。 何か、変わっただろうか。 一晩肌を合わせた、それは大きな意味を持つようにも、取るに足らないことのようにも思えて、よく判らなかった。これから、自分たちがどうなっていくのかも、全く予想なんか出来ない。 まあ、夕方になればまた会える。 とりあえずはそれを目標に今日一日を遣り抜こうと思いながら、拓海は踏み切りを渡ったのだった。
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リクエストは「松本×拓海」 普段書いたことの無いカップリングだったので、 (しかも受け拓海を書くのも初めてではないか) 随分遅くなってスイマセンです(汗) 結局これだけの話に一年以上掛かってしまいました(汗) カプや話の所為なのかは判りませんが、 とりあえず終らせる事が出来て良かったです。 ちょっとオトナな話を目指してみたのですが、難しいですね。 タイトルはそのまま、山崎まさよしの曲ですが、 何となくイメージとして過去を引き摺ってそうなズルイ大人、みたいな。 結局全部拓海の誤解ではあるんですが、 松本さんは何となく過去を持ってそうな感じですよね。 結構好きです。 Chiaki Shimasue 2008.06.04 up |