1122
嶋末 千章


「……っし」
 皿へ移した目玉焼きの黄身が崩れていない事を確認して、オレは小さくガッツポーズをした。
きちんと、端はカリカリに、黄身は半熟に焼けている。これが揃っていないと文句を言われるのだ。まあ、それでも食ってはくれるけど。
 付け合わせはベーコンと、輪切りにしたトマトだ。トースターの中で厚切りの食パンは頃合いに焼けているし、コーヒーもきちんと出来ている。
 完璧だ。
 セオリー通りの朝食の並ぶテーブルを眺め、オレは一つ頷くと寝室へ向かった。

「アニキー、朝だぜー」
寝室のベッドに向かって声を掛けるが、良く寝ているらしいアニキはぴくりとも動かない。 まあ、疲れているんだろうなあ。忙しそうだもんなあ。本当はこのまま寝かせてあげたい けど、でも、やっぱり起こさないとなあ。だって仕事があるんだもんなあ。
ゆったりと広いベッドの、真ん中から少し右側にアニキの頭が覗いている。オレは左側から ベッドに膝をついてその顔を覗き込んだ。ああ、よく眠っている。美人は寝顔も綺麗 だよなあ、と少しだけ息を詰める。
こうして寝顔を見ていられるのは、やっぱり特権だ、と思うしそれはちょっと嬉しい。 目が開いているとちょっと落ち着かないし、下手に視線を合わせると時々大変な事に なってしまうからなー。
しかし、あまり長く見詰めている訳にはいかん。
オレはぽんぽん、と軽く布団を叩きながら、言った。
「アニキー、朝飯出来たぜ。起きてくれよ」
「………ん?」
ぼんやりとした声で、アニキは答える。まだ半分伏せられている目元が何だかちょっと 色っぽいなぁと思いながら、オレはちょっと眼を逸らした。
「アニキ、ほら、早く起きないと遅刻するって……」
「するって?」
するり、と下から腕が伸びてきて、オレの頬をさらりと撫でてくる。あ、何か寝起きの癖に 楽しそうな声じゃねえか。微妙に嫌な予感がして、ぎくりと身を強張らせた時、
「啓介」
何かがオレの肩を掴んで揺さぶった。
そして、低い声がもう一度オレの名前を呼ぶ。
「啓介、何時まで寝てる積もりなんだ。いい加減もう起きねえと目が腐るぜ」
「………、アニキ?」
ぐらぐらと揺さぶられて、オレは目を開けた。少し煤けている、見慣れた天井をバックに アニキの顔が直ぐそこにあった。
「ほら、今日はパーツを見に行くとか言ってたじゃねえか。早く行かねえと道が 混んで面倒だろうが」
「………あー……」
夢、だったのか。
オレは瞼をごしごしと擦りながら呆れ顔でいるアニキを見上げた。今オレが寝ているのは、 狭くてシーツに皴が寄っている何時ものベッドだし、きっと朝飯も出来ちゃいねえだろう。 つか何であんな夢見ちゃったんだろうなー……まるであれは新婚さんみたいじゃない だろうか。
そんな事をぼんやりと考えていると、ふいにアニキの顔が近付いてきた。
「………っ!」
ちゅっ、そんなやたら可愛い音を立てて口唇は離れたが、見開いたオレの目はなかなか 元には戻らない。そりゃあ油断していたオレも悪いが、だからって不意打ちをするなんて 酷いじゃねえか。
「どうした?」
しれっとした顔で、アニキは首を傾げて見せるが、オレは口唇を尖らせたまま視線を逸らして見せる。いや、別にキスなんてのはオレの許可を待たずにしたって、そりゃあ構わないと思う。 もう随分と前からオレとアニキは普通にキスをしたり、それ以上だってしてるけど、でも 何だかなあ。
からかわれるのは、やっぱり、嬉しくないぜ。
視線を合わせないまま、オレはのろのろと身を起こした。眠り足りないのか、寝過ぎたのかは わからないけど、何だか頭がくらくらする。しかし起きないとアニキにベッドから引きずり出され かねない。
ゆっくり伸びをして目を開ければ、ベッドサイドにアニキが座っていた。腕を組んで、 どういう意味かやたら真面目な表情でオレを見詰めている。あれ、さっきとはエライ違い じゃないか。やっぱり飛び起きなかったのが悪かったのだろうか。でも、そんなの何時もの 事だしなあ。
どうしたんだろう、と思いながらオレもベッドの上に座ると、アニキはずいっと顔を近付けて 来ながら、
「そう言えば、さっき新聞で読んだんだが」
「ん?」
そんなもん真面目に読んでいたのか。あんなもんはテレビ番組をチェックするだけの紙だと 思っていたけど。それにしても一体どんなニュースがあったのだろう。オレは恐る恐る アニキの顔を覗き込んだが、真面目な顔を変えないままアニキは、
「今日は、良い夫婦の日らしいぜ」
「………はあ」
今日って、何日だったっけ……ああ、11月22日か。だからいいふーふの日……こじつけ じゃん。つかそんなもんが一体オレ達にどんな影響を与えると言うのだろう。つか、うちの 両親は良い夫婦かと訊かれると微妙だしなあ……その前に此処暫く見てねえ気がするけど。そういえば、何かさっき見てた夢もそれっぽかったような気がするなぁ……。どうしてあんなもん見たのかわかんねえけど。
ボーっとしていると、ふいにアニキがオレの肩を掴んできた。
「いいか、啓介。良い夫婦と言うのはな」
「……ん?」
アニキに何だか変なスイッチが入ったらしい。あと少しでも近付いたら接触事故必須、 そんな距離に気付いているのかいないのか、アニキはあくまでも真面目な顔をしたまま 言った。
「手を繋いで商店街で夕食の買い物をしたり、ごはんを『あーん』と食べさせあったり、 一緒にお風呂に入ったり、おはようやおやすみやいってきますやおかえりのチューをしたりだな」
「………は?」
それがアニキの思う『良い夫婦』のイメージなのか?
つか、後半は夫婦でないオレ達もやった事があるんだが……あれはやっぱり、ちょっとした 夫婦気取りだったのかなあ。あの時のアニキはやたら楽しそうだったしな……いや、 ちょっと待て。
オレはアニキを制止しようとしたが遅かった。アニキはふいに視線を外し、何処か遠くを 見詰めたまま大きな息を吐き、
「朝出勤するダンナのネクタイを奥さんが結んでくれたりするんだ」
ぐっと拳を握り締める。震えすら見える位力が入っているのを見て、オレはアニキが冗談でなく 本気で思っているのを知った。
ああ。
オレは目を閉じると、深く長い息を吐く。本気になったアニキを誤魔化すなんて赤城の山を 平地に戻すよりも大変だろう。
「……ネクタイを、結んで欲しいのか?」
「そうだな」
半ば呆れながら言ったオレに、鼻息荒くアニキは返してきた。つか、アニキはまだ学生だし、 ネクタイもあんまり結びはしねえのに……あ、いや、その前にオレ、ネクタイ自分で結ぶ事が 出来たっけ?
首を傾げながら、オレはアニキの顔を見上げた。しかしアニキはオレの気持ちに気付く事も ないまま、
「じゃ、練習してみようじゃねえか」
にこやかに立ち上がるとオレのクロゼットを開けたのだった。こら、ヒトのものを勝手に引っ張り 出すんじゃねえよ。
「啓介」
「………うう」
内側のバーに引っ掛けていた臙脂のネクタイを引っ張り出すと、アニキはオレを手招いた。 まあ、『ごっこ』でもアニキの機嫌が取れるならまあ、いいかとオレはベッドを下りるとネクタイを受け取る。部屋着にしているアニキの淡い色のシャツの襟元へその手を伸ばした。このまま、 ちょっと首をきゅーっと締めてやろうかなぁ、なんて思った事は秘密だ。
「………っしょ」
部屋着にしている淡い色をしたシャツの襟の中へネクタイを通し、オレは小さく息を呑む。 ええと、右が上だったか左が上だったか……両手にネクタイの端を掴んだまま固まって いると、
「左側を少し短く持った方がいいんじゃねえのか」
「……………」
ぼそり、とアニキは言った。そういやオレ、ネクタイって何時もアニキが締めてくれていたから 自分で締めた事がなかったかも知れない……うっすらと背中を冷たい汗が一滴流れて 落ちる。
ええと。
右側のを左側の下に回すんだっけか……あれ、上手く締まらねえ……何故だ…… ええと、もう一度解き直して……あ、いかん、アニキの手が下の方でわきわきしているのが 見えるぜ。そう言えばアニキってあまり気が長くねえよな……どっちかと言うと凄え短気 だったような……。
「……貸せ」
「うっ……」
眉間に険しい皺を刻んだアニキは、オレの手からネクタイをもぎ取ると、そのままオレの首へ ネクタイを回した。ああ、あまりの不器用さに怒ってる、怒ってるよ……思わず首を竦めそうに なったが、
「ネクタイってのはこうするんだ」
ネクタイを強く引かれ、慌ててオレは顎を逸らす。このまま首を絞められるんじゃないか、と言う勢いだったが、アニキはてきぱきと丸首のシャツの上から手際よくネクタイを締めて くれた。クロゼットの裏についた鏡で確認したが完璧だ。調子に乗ったらしいアニキはノットに 指を入れてネクタイを解くと、今度はダブルノットで結ぶ。器用だ。
もう一度ノットからネクタイを解し、今度はどんな結び方をするのだろうか、と少しわくわくしな がらオレがアニキを見上げていると、アニキはにたり、と笑顔になって、
「やっぱり、ネクタイは結ぶよりも解く方が楽しいな」
「……………」
何か裏がある言葉だ、とオレは思ったが気付かない振りをする。そうした方が身の為だと 嫌という位知っているからだ。とりあえず解かれたネクタイの端を掴んで引くと、そのまま クロゼットへ戻す。
「まあ、そのうち練習しとくし」
「楽しみにしてるぜ」
「……はは」
怪しげな笑みを浮かべているアニキに、オレも曖昧な笑みで返した。まあ、この調子だと 弥勒菩薩が現れる頃まで待っても無理そうだけど。
「まあ、ネクタイだけが望みでもねえがな」
「………つかさ」
「何だ?」
クロゼットを閉めているオレに性懲りもなくアニキは言うので、何となくオレはこの誤解を 解いておかなければいけないような気になった。このまま延々と一日やられちゃかなわ ないし。
「オレ達、兄弟であって『夫婦』じゃ、ねえんじゃねえの?」
「………そうか?」
空とぼけているだけか、と思ったが振り返ってみてもアニキは真面目な顔で首を傾げて いるだけだった。ま、まさか本気でそう思ってたんじゃ……。
「ほ、ほら、夫婦ってのは結婚したりとかしてさ、何か書類とかあってさ……」
「じゃ、今直ぐ結婚すりゃいいだろう」
「は?」
至極当然のようにアニキが返してきた言葉が信じられなかった。え、結婚ってそんなに 単純なものだったのか? そんなにあっさり出来るものなのか?
オレは限界まで目を見開いたが、アニキはオレの手をぎゅっと握りしめると、
「オレと結婚してくれねえか」
「………え」
冗談かと思ったが目が本気だった。まさかの衝撃だったが、それだけじゃなくて何でか 嬉しいと思うのはどうしてだろう。
心臓がドキドキするじゃないか。
「それともオレと結婚するのは嫌か?」 「……嫌、じゃねえ」
「結婚、してくれるよな」
「………うん……」
強い口調で言われ、思わずオレは頷いてしまった。アニキがしたいと思うなら出来るんじゃ ないか、と一瞬そんな気になったのだ。
プロポーズされる、ってこんな事なんだ、とドキドキしながらオレは実感していた。ああ、一生に 一回くらいはされて悪いもんじゃねえなあ、これって。
「啓介」
「ん?」
呼ばれて、おずおずとオレは顔を上げた。手はさっきからぎっちりとアニキに握られたままだ。何だか頬がやたら熱くて、そう見詰められると恥ずかしいんだけど……たまらずに視線だけ軽く 外すと、
「そんな顔をするなんざ反則だぜ」
ふいに、手をアニキは離した。何か悪い事でもあっただろうか、と慌てて視線をオレは戻したが、それよりも早く、ぎゅう、っと強く抱き締められる。
「アニキ?」
背中を確実にホールドされ、アニキの顔を覗き込む事も出来ない。しかもアニキはオレを抱き込んだまま、じりじりとベッドへ近寄っていくじゃないか。おい、ちょっと、待て。
これって………。
「まあ、まずは夫婦の愛の営みって奴だな」
「えー?」
さっき、起きたばっかりなのに。つか夫婦の愛の営みって何だ。オレはじたばたともがいてみせたがアニキの手がそんな事で緩む筈もなかった。それどころか、耳の後ろへ口唇を押し当てられて、強く吸い上げられる。あ、それはちょっと、弱いんだけど……。
「やっ………」
思わず上げてしまった小さい悲鳴に、オレは己の敗北を悟った。ああ、こうなったらもう何処までもアニキの思い通りじゃねえか……。
結局、夫婦であろうがなかろうが関係ないんだ、と諦めながらオレは目を閉じたのだった。

■ end ■